渡辺利夫氏(拓殖大学総長・学長)

渡辺利夫氏(拓殖大学総長・学長)

 皆さん、おはようございます。ご紹介いただきました渡辺です。随分大きなテーマを設定してしまったものかと思うのですが、私が見て現代の中国をどのように理解しているか。あまりディテールに入らずに大枠をお話しできればと思います。話が入り組むといけないと思ったので、レジュメ(添付)をつくってきました。このレジュメに目を落としながら、お話を伺っていただければありがたく思います。
 ご承知のように、『脱亜論』は福澤諭吉の名エッセイですが、私は4年ばかり前に、その『脱亜論』に「新」をくっつけて、『新脱亜論』という著作を書いたことがあります。これは現代の日本を取り巻いている極東アジアの地政学的な環境が非常に緊迫しており、幕末維新から日清・日露戦争に至るあの時代と非常によく似ているというのがこの本の基本認識です。
 かの時代の日本の指導者は、国際環境に対して、まことに怜悧な認識をし、その認識の上に立って、的確な外交戦略を展開して、日本を築いたのですが、今日はまるでその逆です。
 幕末維新から日清・日露に至るころは艦船の時代です。現代はもう、飛行機を越えてミサイル、さらに核ミサイルの時代にさえなっています。日本の周辺諸国は、中国はもとよりロシア、北朝鮮までかの時代に先祖帰りしたかのごとき状況です。核ミサイルの時代にいたっていると考えれば、状況はかの時代よりもっと緊迫しているのではないか。日本はどう生きるべきかという問題意識でさき申し上げた本を書いたことがあります。
先だって、いま与党の、リベラル派として知られる方とお話しする機会がありましたが、その方は、日米中は正三角形が持論です。尖閣諸島漁船衝突事件があって、中国の意図が明確にしかも衝撃的な形でわかるようになりました。鳩山さんの時代に日米中正三角形論ということがよく言われていましたが、まさかあの事件以降、そのような見解を表明する政治家がいるとは思いもよらなかったのですが、この時点でもなお、その有力な政治家は正三角形論を主張していました。一体どうしてか、というのが僕の気分でした。
 日米中正三角形論というのは、日本とアメリカと中国が正三角形(つまり等距離の関係)である、という仮設なのですが、どうしてそういう考え方が出てくるのか。日米は日米安全保障条約によって同盟関係にあります。日本に緊迫の事態が発生すれば、アメリカは日本を防衛する義務を負っています。それにこたえるべく日本は米軍に基地を貸与し、両国の利益がバランスして、日米の同盟が持続してきたわけです。
 日中は同盟関係ではなく、ごく普通の関係です。ごく普通の関係というよりは、歴史認識問題を中心にして実に厄介な問題をいっぱい抱え込んでいる二国関係です。ですから、日米中が等距離にあるという感覚が私には理解しがたい。
 実際のところ、中国は目下、軍拡路線をとっており、いつとは申し上げられませんが、東アジアの地域覇権はいずれ中国の手に落ちるだろうと思います。台湾から南のほう、東南アジアに広がっている海を南シナ海といいます。私どもの同僚でハード面から中国の軍事力の研究をしている防衛庁OBがいて、私は彼からの情報を重要なニュースソースとしているのですが、どうやら南シナ海の制海権は中国に掌握されたと判断していいだろうと彼は言っています。
 実はこれは大変なことです。ベトナム、ラオス、カンボジア、タイ、マレーシアの東海岸、ブルネイなどは、南シナ海の制海権を中国に握られれば、外洋がなくなってしまうのです。東南アジアに強い鬱屈感を与えているテーマです。現代ではベトナムが非常に反中国的な行動を始めていますが、フィリピン、インドネシアもねをあげています。
 台湾から黄海、渤海、朝鮮半島を経て日本の九州に至る海を東シナ海といいます。日中中間線の問題で日中関係をぎくしゃくさせている地域です。ここが中国の手に落ちたという事実はまだありませんが、いずれ中国の手に落ちるのだろうと思うのです。既に複数隻の国産空母の製造を開始しているという信憑性の高い情報があります。重慶ではそれに載せるファイターを何機か製造したというニュースさえも入ってきています。中国による東シナ海制海権掌握の時期がいつ来るのか確定的なことは言えませんが、そんなに遠いことではありません。
 西太平洋にはアメリカの2つの機動航空母艦が遊戈しています。1996年の台湾総統選挙のときに李登輝を落とそうということで、中国は福建省からミサイルを発射して台湾を威嚇しました。高雄沖と基隆沖にミサイルを落としたのですが、そのときすぐに西太平洋の2つの機動部隊が北と南から台湾海峡に入っていきました。中国はその瞬間に軍事演習をやめざるをえなかったのです。少なくとも1990年代の終わりまではこういうことが可能だったのですが、さて2010年代に入り、中国がこれだけの海軍軍事力の強化をしている状況で、そういうことが可能かどうかとなると、そうは言えないだろうと思うのです。
 南シナ海はもとより東シナ海の制海権が中国に落ちるということになれば、その真ん中にある台湾の将来は見えたも同然です。熟柿が落ちるがごとく中国の手に落ちるでしょう。そうなると中国は広いアジア太平洋を舞台に、米ソと覇権争奪に出ていく条件が生まれます。中国は日本よりもはるかに長いスパンで覇権掌握の戦略を持っている国なのです。
 皆様方がイメージする中国は海岸線が比較的真っすぐで、短いというものではないでしょうか。一言で言うと、中国は国土の大半がユーラシア大陸に大きな袋のように広がった国です。そして、中国には軍港とするようなろくな港がほとんどないのです。北のほうの山海関の近くにある秦皇島、それから南の香港、海南島のあたりへ行かないと、ちゃんとした港はつくれないのです。上海などへ行かれればわかると思いますが、もう大変なしゅんせつをしないと使うのが難しい港です。
 ところが、台湾の太平洋側というのは一挙に深い海です。いくらでも港を建設することができます。軍事的な意味で言えば、中国が台湾を統合したいという理由はそこにあるのだろうと思うのです。もしそのような事態になれば、さて日本は、韓国はどうなるのでしょうか。
 中国という国は中華帝国、つまり帝国を志向している存在であり、このことを日本人が理解しなければ、中国の今後の理解は進みませんし、日本の対応の仕方も定まってこない。そう私は思っているので、そのようなことをお話ししてみたいと思います。

〔T 大清帝国の後裔としての中国〕

 Tから入っていきます。少し面倒な歴史になる話かもしれませんが、現代の中国は、史上最大の版図を築いた清国の版図をそのまま受け継いでいます。ここに現代中国の非常な厄介さがある、ということをまず申し上げてみたいと思います。
 タイトルにあるように、「大清帝国の後裔としての中国」というのが私の考え方です。ご存じかもしれませんが、清朝というのは漢族の王朝ではありません。満州族または女真族とも言いますが、これが北京に攻め入って漢族と戦い、それを倒してつくった王朝です。征服王朝と言えば、わかりやすいかもしれません。
 歴史の本などでお読みになって、どこかにご記憶があろうと思いますが、康熙帝、雍正帝、乾隆帝というのは、初代の大変すぐれたモンゴル族の皇帝の名前です。清国はこのあたりに最盛期を迎えました。
 この時代にモンゴル、チベット、新疆ウイグルが中国に編入され、今では内モンゴル自治区、チベット自治区、新疆ウイグル自治区となっています。新疆ウイグルというのはイスラム系のトルコ人がたくさん住んでいたところで、東トルキスタンと言われていた国です。
 これらが大清帝国の時代に清の中に組み込まれたのです。そして、歴史地図をひっくり返してみると、清国はその前の時代の漢族の王朝であった明の3倍の面積になっています。中国史上、最も大きな版図を築いたのが大清帝国だということです。結論を先に言えば、中華人民共和国とは、この史上最大の版図を築いた大清帝国を引き継いだのでありまして、実はこのことがその後の中国を悩ませる大きな問題となったのです。モンゴルもウイグルもチベットも、漢族とは人種や宗教や言語、あるいは風俗、習慣を含めて、まるで違う存在です。
 清国というのは満族が漢族に挑んでつくった征服王朝であり、その王朝のもとに、チベット、内モンゴル、新疆ウイグルが組み込まれた。我々日本人の歴史感覚からすると、よくわからない茫漠たる存在です。日本という国は、四方を海に囲まれていて、外敵の侵入を受けることがなく、同一の民族が同一の土地の上で長い歴史を紡いできました。ですから、歴史教科書が教えるように、石器時代から古代律令制の時代があり、貴族支配の時代があり、鎌倉・室町という武家の時代、戦国時代を経て、江戸時代という近世があって明治維新を迎える・・・そういう時代の順序に従って発展してきた国に違いないのですが、どうも日本人が常識として持っている歴史感覚で中国を見ると誤るのではないか。
 日本の文化人類学の碩学に梅棹忠夫という先生がおられます。『文明の生態史観』という名著を書かれた先生です。梅棹先生によると、日本の発展は人類学の言葉で言えば、自成的、「オートジェニック」です。それに比べて中国の発展は、他成的、「アロジェニック」であり、他の影響を受けてつくられてきた歴史だということです。この表現はぴったりだと私には感じられます。
 ところで、清は今言ったように満州族のつくった征服王朝ではありますが、典型的な中華帝国となりました。征服王朝として満州族が漢族を滅ぼして王朝をつくったのですが、漢族がつくり上げてきた非常に熟度の高い文明に、結局のところ満州族が同化されていったのです。漢字や儒学を採用するようになり、中国の伝統的な官僚登用システムである科挙制度を導入するようになって、だんだん同化していったという経緯があります。
 これは皆さんも聞いたことがあると思いますが、伝統中国に極めて根強い観念に「華夷秩序」というものがあります。中国人の伝統的な思想はこうなっているわけです。真ん中に中華があります。「中原」ともいいます。「中原に鹿を追う」とか、「中原に覇を競う」などという表現をお耳にしたことがあるのではないかと思いますが、その中原です。中原というのは黄河の中流域、今の省で言うと河南省あたりを中心とした華北の平原地帯ですが、ここが中華文明の中心地だと考えられています。後に漢族は南下していくわけですが、自分たちの祖先の地、民族の出発点はそこにあるのだと、こういうDNAが入っています。
 この中華を中心にして同心円的に広がっていき、外縁に位置するほど文明の度合いが低くなる。中華が文明の度合いに応じて一番高い。遠くになればなるほど、その価値が下がる。そういう秩序観念のことを華夷秩序といいます。これは中国において極めて根強いものであります。

 とはいえ、この華夷秩序を非常に強固に持っていては、やはりモンゴルとかチベットとかウイグルを自分の中に組み込むことはなかなか難しい。明国の時代にはこの華夷秩序観念を原理主義的にまで中国は強めたのですが、その反省に立って清国になってからは華夷秩序の観念を薄めていきました。「華」と「夷」の上下関係は意識の底にはあるのですが、これをあまり強調しなくなります。異民族を包摂するためには、どうしてもそういう分治、分けて治める、”Divide and Rule”が必要になってくるという合理的理由のゆえなのでしょう。
いずれの国でも巨大な帝国を築く場合。中央が強力な権限でもって地方を含めて全部、完璧に統治するなどという力は到底生まれてきません。ですから、分治です。ローマ帝国がそうであったように、塩野七生さんの『ローマ人の物語』を読んで、私も、「ああ、清国と同じなんだな」という気分を持つことがありますが、それはそうだろうと思うのです。
 さて、もう一度言いますと、満族が漢族を滅ぼしたものの、古い漢族の文明に同化していかざるを得なかったこと。そして、華夷秩序観念を薄めることによって巨大な版図を擁する中華帝国というべきものがここにできたという次第です。
 茫々たる王朝であります。清はそれ自身が1つの世界だったのではないでしょうか。清国の同心円の外縁から向こうは、自分の世界には関係ない。清国だけが世界(天下)だというようなイメージだったのではないかと思います。
 さて、後でまたこのことについては言及しますけれども、中華人民共和国とはいかなる存在かを考える場合、私どもがまず認識しておく必要があるのは、中華人民共和国が継承したものが中国史上最大の規模の版図を構築した清国の版図であったという事実であります。伝統中国の3倍以上も大きな国であるということです。  

〔U 主権国家観念の導入を図る中国〕

 Uに入ります。私たちは、ともすると国家といえば主権国家のことだと考えます。国際関係というのは主権国家と主権国家を取り結ぶ関係だとはなから考えてしまいます。これは無理もない話であって、主権国家という観念は先進世界においてはもう400年の歴史を持っているのですから。17世紀のヨーロッパで、三十年戦争(宗教戦争)が戦われ、それまでの神聖ローマ帝国という宗教権力が倒され、絶対王政下の主権国家が各国に生まれたのです。こうした新しい関係秩序は条約の名前を取ってウェストファリア体制と言われているのですが、以来400年、ヨーロッパからアメリカ、先進世界はすべて主権国家というコンセプトで国家を運営してきたわけです。400年も続いてきたので、我々はどこの国であれ、国家という以上、それを主権国家だと見なす癖はぬぐいがたい。
 しかし、東アジア、たとえば日本でさえ、明治維新以前には、近代主権国家システムなどというものはなかったのです。主権国家観念をヨーロッパから輸入して、近代主権国家という牢固たる国家の枠組をつくり、近代化していこうと日本人の指導者は考えるようになったのです。
 中国の王朝にはもちろん近代主権国家などという観念は全くありません。存在していたのは、先ほども言いました華夷秩序観念です。中華の価値が高く、外円的に広がって遠くに行けば行くほど価値が低くなるという観念が、華夷秩序です。
 それから、レジュメにも書いてありますが、もう1つ伝統中国を語るのに必要なコンセプトが「冊封体制」です。
 例えば、モンゴルやチベットやウィグルが清国の版図に組み込まれたと私は言いましたが、モンゴルやチベットやウイグルは中国の王朝とどのような関係を築いていたかというと、王朝がモンゴルやチベットやウイグルの王様に、「そこを統治してよろしい」という委任状を渡したのですが、これが冊書です。「封」というのは封土で、封建の「封」に「土」と書きますが、その土地という意味です。したがって、その土地の上に乗っかっている人間を、「おれたちはいちいちうるさいことを言わないから、中華に「礼」をつくす以上は、それぞれの土地と人民を統治する権限をあなたに与えますよ」。それが冊封体制なのです。「あなたたちは中央に対して朝貢、つまり貢ぎ物を持ってくればそれでいい。礼を守ればそれでいい、そのシステムさえ守ってくれるのであれば、人種にも宗教にも言語にも手をつけることはない。風俗も習慣もあなたたちが従来からやってきたものを採用していけばいいのだ」という緩やかな関係であったわけです。
 華夷秩序と冊封体制です。冊封体制で一点、重要なことを述べておくと、国内の異民族との関係だけでなく、朝鮮とベトナムも中国と君臣の関係、つまり君主と臣下の関係にありました。
 琉球もそうです。琉球王朝は日清両属でした。中国と君臣関係にあり、日本とも君臣関係にあるという両属的な地位に、明治時代、日本政府による「琉球処分」に至るまで長らく置かれていたという歴史があります。
 さて、このように我々にはわかりにくい中華世界、こういう茫洋とした漠然たる国家体制で、果たして中国は生き長らえていけるだろうかという疑問が中国の指導者に初めて起こった出来事があります。これが阿片戦争です。いわゆるウェスタン・インパクト(西洋の衝撃)です。この戦争は確かに中国の屈辱の近代史の始まりでした。
 イギリスは香港の割譲を受け、次いで九龍半島を租借し、それから、他の帝国主義勢力が次々と入って中国の沿海部の主要都市をすべて租界にしてしまいます。それから、上海と長江の流域に、特にイギリスは巨大な権益を築いていきました。
 中国はこのアヘン戦争で敗北し、それに続く帝国主義勢力が、中国を蚕食していきます。この姿を見ていて、中国は華夷秩序観念などに安住してはいられないと、特に知識人が目覚めていくわけです。やはり自分たちに屈辱を与えたヨーロッパ列強の主権国家観念を自分たちも導入しなければ、中国は生きていけない。そして、主権国家観念を導入して近代化を図っていこうと、こういうふうに物の考え方が変わっていくわけです。
 冊封体制も崩れていきます。まず、清国の外にあって君臣の関係を持っていた朝鮮半島が、日清戦争の敗北によって中国の手から離れます。その前に、ベトナムの領有権をめぐる清仏戦争でフランスと清が戦うのですが、ここでも清国が敗北します。
 清国のこの状況を見ていた国内のチベット、モンゴル、ウイグルはから独立運動が起こり、冊封体制は危機的な状態に陥りました。
 ちょうど昨年が辛亥革命100年だったのですが、1917年、孫文によって大清帝国が崩壊しました。大清帝国を維持してきた華夷秩序と冊封体制が無意味なものとなったわけですから、当然、存在意義がなくなって壊滅することになったという次第です。
 そこから中国の近代化の運動が始まりました。現代の大きな経済発展につながる近代化の運動のベースが、このあたりで生まれたと言えると思います。日本の明治維新をモデルに、政治、経済、軍事、教育の諸分野において制度改革を行いました。当時、相当の数の清国の留学生が日本の維新のことを勉強しに日本にやってきました。
 それから、ヨーロッパからも鉄道のようなインフラの建設や軍事、教育体制の導入をしようということで、洋務運動という運動も展開されました。要するに中国は主権国家として新たに出発しようと、ほぞを固めたということになります。これまでがUです。
 歴史というのは皮肉なものであり、このことが中国に非常に重い負担を与えてしまったということを次にお話しします。

次へ




***

トップページ

ご挨拶

趣旨と目的

活動内容

企画・運営メンバー

入会ご案内

活動実績

講演要約